Chapter 1 美濃風雲

 弘治元(1555)年、晩秋のある日。
 美濃・稲葉山城主、斎藤義龍は、城下の家臣全員に登城を命じた。
「一体、何事か?」
 登城する誰もが、国の大事と思い城に向かったが、美濃の国自体は現在安定期にあった。では、家臣団を集めた義龍は一体何を考えているのだろうか。大広間に参集した家臣達は、義龍が現れるまで、口々に囁き合っていた。
「お屋形様のおなりにござる」
 小姓の声が大広間に響き、やがて背の高い精悍な顔つきをした男が現れ、上座に腰を下ろした。この男こそ、斎藤義龍であった。
「本日、皆を集めたのは他でもない。我が父、山城入道が尾張の大痴呆(おおうつけ)に美濃製の鎧を贈り、更には大痴呆に兵まで貸し与えておる。わしは美濃の主として、このような真似を許せぬとかねがね思うておった。よってこの美濃を守るため、山城入道を討つ事にした」
 満座に向かい、義龍は大声で言った。彼の父、斎藤山城入道道三は2年前の天文22(1553)年に尾張・那古野(なごや)城主、織田上総介信長と会見したのだが、以来信長に惚れ込み、美濃で開発した鎧を信長に贈ったり、尾張平定戦では信長に援軍を送るなどしていた。その他にも信長に手紙を送り、自らの政治手法などを伝授していた。
 義龍がそれを面白く思っている訳がない。会見以来、事あるごとに衝突してきたこの親子の溝は、埋められないところまで達していた。
「異議ござりませぬ」
 真っ先に同意したのは、義龍の側近である長井道利であった。
「大殿のなされしこと、まさに国を売り渡さんとするかの如くにござります。売国の者を誅せしむること、国主として当然にござる」
 道利の言葉に、義龍は肯いた。
「他の者はどうか」
「我等も異議ござりませぬ」
 義龍の問いに、居並ぶ家臣達は次々に賛同の声をあげた。義龍は家臣一同を見回し、
「されば皆の者、戦の仕度をせい。相手は百戦錬磨の蝮じゃ、余念なきようにな」
と言い、大広間を出た。
(親父殿、貴方は私を何時までも認めてはくださらなんだ。だが、私はもはや童にあらず。私の力、とことんお見せ致しましょうぞ)
 自室へ足を向けつつ、義龍は胸の中でそう叫んでいた。

 一方、斎藤道三は、自らの隠居所である鷺山城外で狩りを楽しんでいた。
「大殿様ァーッ!」
 馬上、狩りの指揮を執っていた道三は、そのあまりにも悲痛な叫び声の方角に目をやった。視線の先には、稲葉山城の方角から必死の形相で馬をとばす家臣の姿があった。
「何をうろたえておる」
 道三はその家臣に向かって怒鳴った。家臣は馬から飛び降りるなり平伏し、
「い、稲葉山の義龍様が、大殿様を討つとの軍令を発せられましてござります」
と、息を切らせながら要件を述べた。
「そうか……」
 道三は一言言っただけで、空を見上げた。陽は西に傾き、空を紅く染めていた。
(義龍め、まだまだと言うに力みおって。久しぶりに、戦の仕度にかからねばならぬな)
 己一人の才能と力で、一介の浪人油売りから美濃の国主にまで成り上がった道三である。自分の人生の終幕となるであろう危機が実子によってもたらされる事に一抹のおかしさを感じたのか、顔に笑みが浮かんだ。
「城へ戻る。戦の仕度をする」
 そう言うと道三は馬に鞭をくれ、鷺山城へ駆け出した。

 鷺山城にも稲葉山城における異変の報がもたらされ、明智光安、石谷対馬らが広間に参集していた。
 道三は上座に着座し、
「義龍の一件、その方らも聞いたか」
と言った。一同、肯いた。
「直ちに我等も兵馬を整えなければなりませぬ。感簿の御下知を……」
 明智光安が進言した。後に京都・本能寺で織田信長を討つ事になる明智光秀は、光安の甥である。
「しかし明智殿、我等がどれだけ集めたとしても、せいぜい二、三千程度ではないか」
「尾張に援軍を求めればよい。清洲の信長殿は、大殿の婿殿にあらせられる」
 石谷対馬の反論に、光安は一番妙案と思える案を出した。
「婿殿か……」
 道三は信長の名を聞き、眉を動かした。信長の妻は、道三の娘・帰蝶なのである。
「大殿、尾張に助勢を頼みましょうぞ」
 光安、石谷らは口々に進言した。しかし道三は、
「婿殿には、援軍は無用と伝えよ」
と言った。
「何故にござりますか?」
「わしの兵と信長の兵を併せても、せいぜい五千程度であろう。義龍は二万ほどじゃ。この戦はわしと義龍の喧嘩であって、信長の得にはなるまい。戦とは、利害の勘定で行うものじゃ」
 そう言った道三の眼差しは厳しく、居並ぶ者達は威に打たれ、何も言えなくなった。
「今の言葉、尾張の婿殿に伝えよ。それから、戦の仕度にもかかれ」
 道三は指示を出すと、広間を出て縁側で足を停めた。空はもはや、夕陽の残照が残っているのみで、夜の帳が降りていた。
(わしの夢も、どうやら終幕か。信長には、我が夢を継いでもらわねばならぬ。そのためにも、こんなつまらぬ事に首を突っ込んではもらいとうない……)
 夕陽の残照を見つめながら、道三は自らの最期、そして信長へ思いを向けていた。


 尾張、清洲城。織田信長はこの年、那古野からここに居城を移していた。その清洲城の書院に三人の人物がいた。上座に信長と妻の帰蝶がおり、下座に道三からの使者が平伏していた。
「な、何だとォ!」
 使者の口上を聞いた信長は顔色を変えた。帰蝶も青ざめていた。
「お、お父様……」
 帰蝶の声は震えていた。
「信長様、ここのところは我が主の心中をお察し、なにとぞご自重のほどを……」
 使者は平伏しながらも大汗をかきつつ言った。その時だ。
「あの親父、思わせぶりな事ぬかしやがって……!」
 信長は猛然と立ち上がり、凄まじい声で叫んだ。
「戻って義父(オヤジ)に伝えな。オレは必ずあんたを助ける。戦は利害なんかでやるモンじゃねェってよ!」
 信長の剣幕に使者は、
「ははっ!」
と応じるのがやっとであった。
 使者が去った後、信長は帰蝶に、
「おまえからも、親父に手紙を書いてやんな。そうすりゃ、考え直すかも知れねェだろ。頼むぜ。あの親父は、まだ死んじゃいけねェんだ」
と、憂鬱そうな顔で言った。
「信長様……」
 帰蝶は未だ衝撃が覚めず、そう言うのがやっとであった。
「オレの方でも、何時でも出られるようにしとくからよ……」
 信長はすぐに、美濃の情勢を探る諜者を放ち、情報収集を開始した。

「なんと、婿殿はかように申したか」
 次の日、鷺山城に戻った使者から信長の答を聞いた道三は、驚きの声をあげた。が、次の瞬間、未だかつて見せた事がないほどに柔和な表情に変わった。
「信長が、そこまでこのわしを思ってくれていようとはな……」
 道三は目を潤ませた。
「大殿様、ここは信長様のご好意に……」
 使者が進言したが、道三はそれをさえぎるように、
「援軍は無用じゃ」
と、きっぱりと言い切った。
「大殿様、何故にござりますか?」
 先刻の道三の表情から、使者は道三が信長の援軍を受け、義龍に立ち向かうであろうと思った。劣勢を少しでも立て直すには、方法はそれしかないだろう。しかし、道三は拒絶した。使者が驚いて聞き返したのは、そういう理由からだった。
「信長とて、配下の兵はわしと同じ程度じゃろう。あやつが得るものは、今度の戦では何もない。焼け石に水じゃよ。だからこそ、援軍は無用なのじゃ」
 道三は使者に、教え諭すように言った。その後、帰蝶からの手紙が届いたが、道三は手紙を持参した使者をもてなすと、土産を持たせて清洲へ帰してしまった。

「ダメだったか……」
 信長は帰蝶から詳細を聞いて、顔を曇らせた。
「信長様の方は……」
「まるっきりだ。どの報告も義父不利、そんなんばっかだ……」
 信長が放った諜者達からもたらされた報告は、どれもこれも道三の不利を伝えるものばかりだった。
「お父様は、もはや生き永らえようとは思っておられないのかも……」
 帰蝶の瞳から、涙が一滴落ちた。
「くそっ、どうにもなんねェのかよ……」
 信長は苛立ちの余り、髪をかきむしった。
「信長様、もういいよ。私、あなたのその気持ちだけで……」
 帰蝶が泣きながら言ったときだ。
「帰蝶! おまえ、何弱気になってんだ! オレは絶対に諦めねェぜ。必ず助け出してやるからよ、おまえも諦めんな!」
 信長が反射的に怒鳴り声をあげたのだ。帰蝶は一瞬たじろいだが、信長の言葉に勇気づけられたか、涙を拭い、明るい笑顔を見せた。


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