Chapter 2 長良川

弘治元年に道三と義龍の間に戦端が開かれる事はなかったが、翌弘治2(1556)年4月、ついに道三は戦端を開く決意をした。鷺山城に集結した兵はわずか二千である。
「よく集まってくれた。我等はこれより稲葉山城へ向かい、義龍を討つ。命を惜しむな。名こそ惜しめ。よいな!」
 道三の檄に、兵士達は大喚声をあげた。
「出陣!」
 斎藤道三最後の戦争となる『長良川の合戦』が、まさに幕を開けようとしていた。
(もう、この城に戻ることもないであろう)
 鷺山城を出てから、道三は一度振り返り、自らの城を見つめた。彼の美濃国主への道は、この鷺山から始まったのである。
「大殿、織田殿の援軍は……」
 感慨深げに城を見つめていた道三に、石谷対馬が小声で尋ねた。道三はそれには答えず、懐から一通の手紙を取り出し、
「これを、清洲の婿殿に届けよ」
と、近習に命じた。
 近習が清洲へ向かったのを確かめると道三は、
「我が志は、必ずや信長が継いでくれるであろう。そのためにも、このようなことに出てもらいたくはないのじゃ」
と、石谷に諭すように言った。石谷は目頭を押さえた。
「さあ、我が人生最後の戦じゃ。石谷よ、泣くでないぞ」
 そう言うと、道三は馬の速度を速めた。

 道三挙兵の報は、直ちに稲葉山城にもたらされた。義龍は具足に身を固め、側近らを集め軍議を開いた。
「親父殿は、どのように進むと思う」
 義龍は長井道利、稲葉一鉄らに尋ねた。
「大殿はおそらく、長良川、木曽川を渡り、尾張へと走るかと思いまする。それを防ぐためには、国境を固めておく必要がございます」
 道利は一番考えられる事態を述べた。
「そうか。では五千を木曽川方面へ向けよ。信長を入れてはならぬ」
 義龍が指示を出したその時である。
「お屋形様、物見からの報告が入りました」
という声に続き、具足姿の斥候が入ってきた。
「大殿様は、真っ直ぐにこの稲葉山城を目指して進軍中にござります」
 この報告は、その場にいた全員を驚かせた。守城側より格段に劣る兵力での攻城戦など、まずありえないからである。
「親父殿も、どうやら血迷われたようじゃな。陣ぶれを出せ!」
 義龍は自ら一万二千の軍勢を率い、長良川畔に布陣し、道三を迎撃する態勢をとった。

 一方、信長は。
 信長はこの半年ほど、美濃の情勢調査の他に弟・信行との兄弟喧嘩もあって、思ったように身動きがとれずにいた。道三の使者が清洲を訪れたのは、まさにそんな時だった。
「美濃からの使いだァ? 義父、やっと援軍を頼む気になったかな」
 信長は帰蝶を連れて、広間で使者と会見した。
「こちらの書状をお持ちいたしました」
 使者は道三の手紙を信長に渡した。
「手紙?」
 信長は訝しげな表情でそれを受け取り、封を開いて読み始めた。しかし次の瞬間、彼の表情は一変した。
「あ、あのオヤジ……!」
 読み進んでいくうちに、信長の体全体が震えてゆく。帰蝶は信長の様子に、胸騒ぎを覚えた。
「信長様、お父様は何と言って来られたの?」
「この手紙、おまえも見てみろよ……」
 信長はそう言って、帰蝶に道三の手紙を見せた。帰蝶は目を通したが、次の瞬間には泣き伏してしまった。
 手紙には、こう書かれていた。
『織田上総介殿

 婿殿にこのような手紙をしたためたのは、他でもない。わし亡き後は、美濃国は織田上総介殿に譲りたい。何故ならば、わしの夢、天下統一を継げる者は信長殿、貴公をおいて他にはおらぬからだ。そこで、貴公にふさわしい旗印を贈りたい』
とあり、次には、
『天下布武』
と書かれていた。手紙はさらに続く。
『これは、己の力で天下を取る、という意味だ。婿殿の旗印にこれほどふさわしいものは、他にはあるまい。これが、わしが貴公に出来る最後のはなむけじゃ。さらばだ、婿殿。帰蝶をよろしく。

斎藤山城入道道三』
 手紙を読み終えた時、信長の頭の中では様々な出来事が駆け巡っていた。帰蝶が嫁いで来た日のこと。道三との会見のこと。そして、今に至るまでの道三の好意……。それらは衝動となり、信長を突き動かそうとしていた。
 と、信長は突然立ち上がり、
「馬引けェー!」
と叫び、駆け出した。
「信長様、おやめ下され!」
 使者は信長にしがみつき、押しとどめようとした。しかし。
「どきやがれェー!」
 信長は使者を蹴り飛ばし、広間を飛び出した。帰蝶も手紙を持ち、あわてて信長の後を追った。
「馬引けェー! 馬引けェー!」
 信長は再び叫んだ。
「殿、どうしたんスか!」
 側近の池田恒興、前田利家らも詰間から飛び出し、主のただならぬ様子に驚いていた。
「信長様、どうしたのよ!」
 帰蝶の問いに信長は、
「決まってんだろ! 義父を連れて帰って来る! 心配すんじゃねェ、必ず助け出すからよ!」
と叫ぶと、鎧もつけずに馬に飛び乗り、駆け出した。
「てことは、出陣か!?」
 前田利家が叫んだ。
「やべェぞ、利家!」
 池田恒興も慌てだした。
「オレ達も行きましょう、利家さん!」
 軽輩ながら重用されている木下藤吉郎が利家に言った。
「よっしゃ、行くぜ、猿、恒興!」
 利家達は大急ぎで武装し、信長の後を追った。

 信長は美濃へ向けて、一人馬をとばしていた。
(オレは今まで、親父以外からこんなに愛情を示されたことがあったか? ねェじゃねェか。義父、オレが着くまで待ってろよ!)
 信長は溢れる涙を拭いもせず、
「死なせねェぜ、オヤジィー!」
と、あらん限りの大声で叫んだ。
「殿ォー!」
 ふと、後方から聞き覚えのある声が聞こえた。信長は馬を止め、涙を拭って後方を振り返った。見ると、利家達が兵を連れて来ていた。
「利家かー!」
 信長は大声で叫んだ。
 利家は信長に追いつくなり、
「一声かけて下さいよ。殿はいつもこうなんだからさ」
と、苦笑しながら言った。実を言うと、信長は出陣の号令を下したことがなかった。一人で飛び出し、気付いた者が後を追うというやり方だったのだが、これは生涯変わらなかった。
「悪ィな。で、利家、どんだけ連れて来た?」
「清洲の全兵力、二千ってとこっス」
「よっしゃ。これから蝮のオヤジを助けに行く。野郎ども、突っ走るぜ!」
 信長の号令で、織田軍二千は一斉に美濃へ向けて全力疾走を開始した。

 道三と義龍は、長良川を挟んで向かい合う形で布陣していた。
「鉄砲隊、撃て!」
 先に仕掛けたのは道三であった。やがて義龍軍も応射し、凄まじい銃撃戦が展開された。やがて銃声が止んだ。
「長槍組、進めっ」
 道三の指示で、長槍組が突撃を開始した。瞬く間に、長良川は修羅場と化した。
「大殿様ー!」
 義龍側へ放っていた斥候が、息を切らせながら戻って来た。
「何事じゃ」
「の、信長様が、木曽川を越え、こちらに向かっておられます!」
 斥候の報告に、道三は目を丸くした。
「何と。あれ程来るなと申したにもかかわらず……」
 道三の表情が緩んだ。
「大殿、尾張へ参りましょうぞ」
 明智光安が進言したが、道三は首を横に振った。
「いや、信長が着く前に総攻撃をしかけよ。あ奴をこの様な馬鹿げた戦に巻き込むわけにはゆかぬ」
「では大殿、それがしも御供を!」
「光安、お主は戦場から離れよ。お主まで無駄死にすることはない。さらばだ」
 そう言うと、道三は馬上の人となって修羅場と化している長良川へと駆け出した。光安は呆然と見送っていたが、やがてその場に崩れ落ち、声をあげて泣いた。

「わしは斎藤山城入道道三である。この首を取れるものなら取ってみよ」
 道三は戦場に入るや、大声で名乗りをあげた。周囲の兵の視線が道三に集中した。その兵士の大半は、義龍軍の兵士であった。
「大殿様、御免仕りまする」
 義龍軍の兵士が槍を突き出したが、道三は逆に自らの槍で相手を突き、さらに十人ほどを血祭りにあげた。しかし。
「御免!」
 背後から、一本の槍が道三の胴体を貫いた。そして、次々と槍が道三を貫いていった。
「我が人生に一片の悔いなし!」
 道三は一言叫ぶと、
 ドシャーン
と、音を立てて落馬した。そして、そのまま起き上がることはなかった。

 信長が義龍の別働隊を粉砕して長良川畔に到着した頃には、既に戦闘は終わっていた。
「義父! どこだ! 迎えに来たぜ!」
 信長は叫びながら、死骸が累々と横たわる長良川畔を駆けた。
「も、申し上げます……」
 信長が声のした方向に向かうと、そこには虫の息の兵士が横たわっていた。
「おい、道三のオヤジはどうした!」
 信長は馬から飛び降り、兵士に詰め寄った。
「大殿様は……、既に討ち死にあそばされまして……ござります……」
 兵士はそう言うと、首をがくりと垂れた。
「ちきしょう! 遅かったかァー!」
 信長は声をあげて泣いた。そして、地面を激しく殴った。何度も殴り続け、拳から血が流れ出した。
「殿、やめて下さい!」
 利家達は信長に駆け寄り、あわてて信長を止めた。止められた事で、信長はようやく冷静さを取り戻した。
「どうするんです?」
 恒興が尋ねた。
「清洲へ帰るぜ。義龍に囲まれて全滅しちまったら、義父の仇も討てねェからよ……」
 信長はそう言うと、馬に乗り、馬首を清洲へ向けた。
(天下布武……。己の力で天下を取る、か……)
 信長の心の中に、道三の手紙の中の一言が繰り返し現れた。
「義父、見てろよ! 必ず天下を取ってやるぜ!」
 信長は天に向かって叫び、長良川を去った。

 斎藤山城入道道三、享年満62歳。信長が道三の遺言を果たすのは、これより11年後の永禄10(1567)年のことになる。

                                                                 了


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